ニューヨークで3日目の朝を迎えている。
4月のニューヨークは春が近づいているはずなのに寒い。今朝はあいにくの雨と風だ。
セントラルパークからワンブロック歩いたところにあるこのユースホステルは、暖房もろくに効かず建物も古いから朝夕はとても冷え込む。黒人の従業員に「ヒーターを点けてくれ」と何度言っても暖かくならない。シャワーのお湯も出ないこともある。着れる物をしこたま着こんで寝ている。
この部屋で早起きするのはいつも私だ。朝、目を覚ますと寝ている連中を起さないように準備をして、静かに部屋を抜け出しニューヨークの町を歩くのだ。
今日はアッパーイーストタウンへ向かおうと思った。
アッパーイーストタウンはセントラルパークの東側に位置していて高級住宅地として有名らしい。ロシア系の移民が多く住んでいるとのことだった。毎朝、セントラルパークを散歩してどこかで簡単な朝食を摂り、美術館や博物館へ行くのが私の日課になっている。
セントラルパークはさすがの雨で人もほとんど歩いていなかった。雨風が強くなってきたしデリのような小さなレストランで朝食を取ることにした。路上のホットドッグ屋も飽きてきたし、どこかでゆっくり食事がしたかった。
店に入り注文を取りにきたウェイトレスに、チーズエッグサンドとスクランブルエッグそしてコーヒーを注文した。髪が短くてチャーミングな女性だった。英語に独特のアクセントがあり、きっとウクライナとかその辺りの移民が働いているんだろうなと思った。周りの客は小奇麗でさっぱりした格好をしている。常連っぽいおじさんが新聞を読みながらコーヒーを啜っている。どことなくニューヨークにいる気分にさせられる。
午前中から美術館に赴いて、ゴッホやピカソの絵と対面する。
それはこの上ない贅沢で、幸せなことだと感じていた。それを考えたら、とても嬉しくなった。
コーヒーを飲み終えた頃、さっきのウェイトレスが私のテーブルを通りがかるようにして、オレンジジュースの入ったグラスを置いていった。
“あれ、おかしいな”と思った。私はオレンジジュースを注文した覚えはなかったし、メニュー表や伝票を確認したがやはり私が注文したものではなかった。
するとさっきのウェイトレスが見兼ねたのか、また通りすがりに「ジュースは特別よ」と言って去ってしまった。
周りの客を見てみると、確かに私だけのテーブルにジュースが置かれている。彼女の方を見ると“オーナーには内緒よ”と目くばせしている。そうか。この小さなグラスに入ったジュースは、私だけのサービスなのか。私は嬉しくなった。
彼女のサービスは、朝から私をハッピーな気持ちにさせてくれるものだった。ウェイトレスであろうが何だろうが、サービスをしたいのだからサービスをする。それは自由な空気を含んだどこかアメリカ的な感じがした。彼女のサービスは、今日一日を楽しくしてくれるような、笑顔でいられるような気分にさせられた。
どういう理由でウェイトレスが私にそのサービスをしてくれたのか分からない。
ひょっとしたら初めての客だったからかもしれない。私が旅行者だったからかもしれない。いろいろと想像を掻き立てられた。しかしどんな理由にせよ、彼女の好意がとても嬉しかった。
“ニューヨークでウェイトレスに恋をする”、、なんだかアメリカっぽい感じがする。
もしあの時、デートに誘っていたらどうなっていただろうか。どんな展開になるんだろうか。ニューヨークを舞台にそんな恋を描いた映画がありそうだ。そんなくだらないことを考えながら傘をさして、まだ雨が降りしきる町を歩き始めた。
今日はきっといい一日になるだろう。それは間違いなかった。