そう長くは眠らなかったはずだ。
目を覚まして時計を見てみると、まだ夜の8時くらいで、深く眠るにはまだ早すぎた。
少し休んだことで目はさえてしまっている。
私は寝袋に包まったまま、しばらく外を眺めていた。
さっき振ってきた雨はしだいに本降りになり、雨粒が境内に生えている草木に跳ね返る音が聞こえる。その音を聞いていると、時に強くなったり、弱くなったりしている。雨の勢いが変化しているのがよく分かる。
鈴虫の音色もきれいだった。おそらく数百、数千匹もの鈴虫が鳴いていて、おそらく明け方まで鳴き止むことはないだろう。
それ以外の音は聞こえてこない。
辺りは静寂に包まれていて、いま無限にある時間の中、何も難しいこと考えずただ息だけしていると、とても安らかな気持ちになっていった。
手を伸ばせば届きそうなところに小さな石仏がたくさんあって、こうして何百年もの間、雨や風に打たれてきたのだろうか。冬には雪に埋もれることもあっただろう。顔の形が削られてしまうくらい、長い年月そこに立ち続け、人々に大切にされてきたのだ。
本堂の前に、子供に乳を与える母親の石仏があった。〈金昌寺〉にある1000体もの石仏は、どんな願いを込められて安置されたのだろうか。
こんな山里のお寺で、こうして地面に這いつくばるように一晩明かそうとしている自分を思うと、そんなろくでもない自分に笑えてくる。ぎりぎりまで秩父に行こうか迷っていたが、結局来てしまっている。やはり私は旅をしたかったのだ。
腕を枕にして、いつもと変わらないテントの模様を眺めていると、これまでしてきた旅のことを思い出す。時には大雨と雷が降りしきる富士山のキャンプ場で、時には自転車で夜通し走りやっとたどり着いた北海道のキャンプ場で、あるいは支笏湖とか中禅寺湖とか、相模湖とか本栖湖で、何十回とこのテントを立てて、寝袋に包まり同じように眠ってきた。
いま旅に出ている以上、昨日まで悩んでいたことはもう悩まなくてもいいことである。
ふと外に目をやると、当然のように石仏は凛として立ち続けている。
きっと今頃は、夕飯を食べたり、お酒を飲んだり、友達と騒いだり、音楽を聴いたり、本を読んだり、テレビを見ているはずだ。何か足りないと思ったら、すぐに手に入れていたはずだ。食べ物や酒なんて十分過ぎるのに、必要以上に摂っている。普段そんな生活をしていたことに気付かされる。それが私の日常であった。今は十分ではないが、必ずしも必要ではない。心は十分に満たされている。
今こうしてシンプルな生活をしていると、気付かされることがたくさんある。
再び眠りにつく頃、やたら鼻息が荒い四本足の動物が、テントの前を通り過ぎていった。
朝、納経所の人に聞いてみると、それはイノシシだと教えてくれた。