“俗世としばらく離れて、自然の中に身を置きたい…”
それが今年の夏、『秩父巡礼』に出掛けた理由かもしれない。
9月の後半、夏も終わり秋はすぐそこという時期に、私は旅に出た。テントと寝袋を担いで、電車を乗り継ぎ秩父へと向かった。
昨年のインドの旅から丸一年となる、久し振りの〈旅〉である。
秩父へ向かった目的は、『秩父三十四箇所観音霊場巡り』をするためだ。
〈観音巡りは日本各地に伝承され、古くから巡礼者で賑わっています。秩父三十四ケ所の観音霊場は、坂東三十三ケ所、西国三十三ケ所と共に、日本百番観音に数えられています…〉
元々私は、四国八十八箇所のお遍路に興味を持っていて、日本の巡礼について本を読んだり、休日には東京六地蔵巡りなど経験していた。またスペインのサンティアゴ巡礼にも興味を持ち、いつかは行ってみたいと考えるようになった。
〈巡礼〉というその言葉に、私はスピリチュアルなものを感じてしまうのだ。
巡礼者はいつ行き倒れてもいいように白装束に身をまとい、何十日間も徒歩だけでお寺を巡り、現世のご利益と来世の幸せを祈るのだという…
〈巡礼〉は何百年も前から、何十万人という人々が続けてきた一つの旅だ。
最近になって、図書館で本を読んでいると、埼玉県の秩父にもこのような巡礼できるところがあることを知り、全行程100キロ程で短期間で廻れることもあり、この旅を決めたのだった。
そこには信仰心だとか、私の中に何か難しいものがあったわけではない。ただ巡礼と言う旅に出てしまいたかったのだ。
事実、出発するまで足取りが重かったし、夏休みなんだからゆっくり休めばいいのに…とも思ったし、疲れたり飽きたりしたらすぐに帰ろうとも思っていた。
しかし実際には秩父に赴き、そして無事に巡礼の旅を終えた。
その原動力となったのは、自然の中に身を置きたい、煩わしい俗世から離れたい、日常から非日常へ身を置きたい、自分だけの自由な時間を過ごしたい、34の札所を歩き通すことで何を感じるのか知りたい、、それだけが旅に出る理由だった。